2010/06/06

Meet Free Monday

 
 
私のまわりでは、家族も友人も(現在は)肉を食べるが、みな思いやりあるやさしい心の持ち主たちばかりだ。

肉を食べるからといって、私がそれだけで人を否定的にみたことはないし、まわりのみんなも私は私の考え方として尊重してくれているので、家庭でも外食でも楽しく一緒に食事をいただくことができる。

多くの人は“そのこと”を理屈では理解しているので、押しつけなくとも、私自身が徹して主義を貫いていれば、必ずそれを人は見ているし、何かを感じてくれているはずだからだ。

ブログによる活動も含め、それらのことは静かなる影響力をもって、確実に周囲に変化をもたらしていくし、実際にその変化を実感することがある。

その喜びが自分のパワーとなっていく。


しかし中には、その人が肉を食べるからという理由だけで、他の人とうまくつきあっていけないベジタリアンたちもいるようだ。

以前どこかのサイトで見かけたのだが、肉を食べないということをオープンにしただけで、友人が去ってしまうのではないかという不安や悩みを抱えていたり、実際に孤立してうつ病になってしまった、というような話だった。

そのことを口にするまでは、その友人と日常的に親しいつきあいをしていたのなら、そうなってしまうのは本当に悲しく残念なことだと思う。

きっとそこまで追いつめられてしまうのは、“ALL OR NOTHING” という考え方から自分をがんじがらめにしてしまうからではないだろうか・・・。
その結果、相手にも自分にも妥協することが出来なくなり、追いつめられてしまうのかもしれない。


全てを同じ価値観で共有できる友だちなどなかなかいないものだ。
つきあいが長ければ長いほど、ある日突然意外な一面を見せつけられてビックリすることも、互いにあるだろう。

それでも互いの違いを尊重しながらもつながっていられるのが、真の友情だというのが、今の友人たちに囲まれて私がしみじみ思うことだ。

親しいからこそ、この人に聞いてほしい、賛同を得たいと思うのもふつうの感情なのだろうけれど、一緒に食事をしながら肉食を非難してみたり、顔を合わせるたびに動物愛護を語ってみるのは無謀というものだ。

真の友人であれば、自分が相手に正直であることで、相手も自分に正直であってくれるはずだ。

つまり、自分が動物愛護の考えから肉を食べないのだ、ということを正直に話すだけでいい。
そこで離れていく人は離れていくし、そのままかわらぬ友人でいる人ならば、相手のそういった考え方を尊重し、理解してくれる人なわけだから、その友情は大切にしてほしいと思う。

私だって、いくら親しいとはいえ、関心のないことをいきなり延々と語られたら、その人を煩わしく思うし、それが二度も続けば、会いたくもないと思ってしまう。


いまの世の中では、たとえ僧侶が倫理的なことを説いたとしても、何を食べるか食べないかは最終的に個人の選択でしかない。

ただ、そう言っている私があえてブログで書く目的は、私たちが口にする肉が、どのようにしてスーパーやレストランに並ぶかだけは、ぜひ知ってほしいという願いからである。

だからといって無理やり目や耳をこじあけて、知ってもらおうというのではない。
このブログも、たまたまここへきて関心を持ってくれた人に読んでもらえるだけで、じゅうぶん意義があると思って書いているものだ。

いずれ書くつもりでいるが、特に女性が日常的に愛用している化粧品や、ヘアケア製品開発のための動物実験についても同じ気持ちだ。

なぜなら知ることで、変わる人はいるからだ。

実際に私がその一人だ。

私も10代までは肉を食べていた。
「おいしいおいいしい」と言って食べていたのだ。


豚 = 豚肉

牛 = 牛肉

鶏 = 鶏肉 


極端な言い方をすれば、ある時期まではそれらに近い認識だった。

その私が、いまこうしてここで『畜産動物の悲しみ(6/5更新) 』というタイトルで熱心にブログを書いている。


それまで知らずにいた胸が張り裂けるほどの悲しい現実が、いかに私に影響を与えたかということを、少しは想像していただけるのではないかと思う。



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