2010/06/05

畜産動物の悲しみ

今話題の iPad 
妻は厳格なビーガンである



「人間は生きるために食べるべきであって、味覚を楽しむために食べてはならない。」
                                   マハトマ・ガンジー


ガンジーも主に動物愛護の観点からこう云ったのだと思うが、新鮮な野菜の味や、料理の味を楽しむことは私にもあるので、私の場合はこの言葉を少しかえさせてもらい、

「人間は生きるために食べるのであって、食べるために生きているのではない。」 

このように自分に戒めている。



私たち日本人は、いつのまにか欧米型の食生活が中心となった。
それに伴い、かつては少なかった病気にもかかるし、それによる死亡率も急増した。

男性はメタボ解消、女性はアンチエイジングと、新たな言葉に踊らされ、日々そういったことに涙ぐましいほど一生懸命になっている。


長く続けてきた食習慣を変えるのは、簡単ではないかもしれないが、それほど難しいことでもない。

私自身ははじめは健康上の目的から、その後に動物愛護の考えから肉を食べることをやめた。

肉を食べないことは、肉体的にも精神的にも、想像以上にすばらしい結果をもたらしてくれるということは自分で体験し、実感している。
なので、内心はいつかみんなも少しづつでいいから、そうなっていってくれればいいな~と、思っている。
なぜならそういった一人ひとりの変化は、本人のからだにだけでなく、地球にもやさしくなることにもつながっていくからだ。


ほかの先進国に比べ、まだまだ日本には環境保護や動物福祉からのベジタリアニズムが普及していない。

すくなくとも私たち日本人は、わざわざ残酷な方法で動物たちの命をいただかなくとも、ほかに食べるものはいくらでも豊富にある。

また、これは多くの人が誤解していることだと思うが、じつは人間は肉を食べなくとも、栄養学的にはなんら問題はないことが、現在ははっきりとわかっているのだ。 (大豆などはりっばな良質のたんぱく源である)

つまり、肉を口にするということは、お酒やたばこと一緒ということになる。
それは生きていくのに必要なのではなく、「嗜好」にすぎないということだ。

イルカ・鯨肉についても同じである。

なぜそうまでして、イルカや鯨を殺して食べ続けるという「伝統」を死守したいのかが、私にはどうしても理解ができないのだ。
時代は移り変わる・・・と共に変わっていかなければならないこともあるはずだ。

一部の人たちの反対抗議デモにより今回東京の全映画館で「ザ・コーヴ」の上映が中止になった。
私個人の感想を一言でいえば、「残念」である。
なぜならば、あの映画は決してただの人種差別的な日本バッシングの映画ではないからだ。

感情論で国や人間同士互いを非難しあう以前に、スペインの闘牛もそうだが、文化や伝統という「もっともらしい口実」で殺される鯨の身にもなって考えてみる、ということは出来ないだろうか。
本当の犠牲者はいったい誰であるか、をよく考えてみてほしいと思う。

あれだけ牛や豚や鶏を食用に殺している欧米の映画に、ああいったかたちで日本を世界に知らしめられるのは、たしかに日本人としては悔しいかもしれない。
しかし監督のルイ・シホヨス氏がベジタリアンだというのはたいへん説得力があるし、真実は真実として知りたいと思う日本人もたくさんいるということも現実なのだ。

 
口蹄疫』の問題は、その根底に、私たち現代の日本人が、貪欲に牛や豚たちの命を身勝手に奪い続けているということを、真剣に考えなおさなければならない時期にある警告ではないだろうか。
・・・と、私は思いたい。

しかし悲しいかな、現実はそんな私の思いとは逆行しているようだ。

先日の新聞では、宮崎県の畜産農家を救おうと、バーベキュー大会の企画をするなど、肉の「さらなる消費」を一生懸命呼びかけている人々の運動を大きくとりあげていた。
しかしその反対側で、生まれながらに「家畜」という名を付けられ、人間に思うように扱われ続けてきた動物たちを、もう苦しみ・悲しみから解放してあげたいと思う人はどれほどいるのであろう。


畜産農家の人の立場だけではなく、牛や豚の立場を想像し、心を痛めることはけっしてズレていることではないはずだ。

なにしろ恐ろしい数の牛と豚が殺されている。
恐ろしい数だ!
いずれは殺される運命であっても、こんな悲惨なことってあるだろうか!


こういった多くの問題がたいていは人間の都合によって引き押おこされ、いつもいつも犠牲になるのは、言葉をもたない動物たちである。


新聞・テレビでの報道を見ながら、毎日大量に「処分」(大嫌いな表現である)され続けている、牛や豚のこと思い、胸を痛め涙をこらえる私はただのセンチメンタリストであろうか・・・。