2010/06/09

畜産動物の悲しみ Ⅱ

 
 

幸福なことに、私たちの世代は、いつ空から爆弾が落ちてくるか、いつ家族や友人を奪われるかなどという心配などしなくてすむ平和の中で生きている。

さつまいもやかぼちゃだけを食べ続けた経験などないし、ましてや空腹で拾い食いや物乞いなどしたこともない。

終戦直後の食べ物がない時代から、ここまでの日本にする苦労すらしてきていない私たち世代が、気分しだいで和・洋・中、また麺類ひとつとっても、日本そばからパスタまで、とんでもなく贅沢な食の選択が出来る世の中だ。

テレビも、情報雑誌も、安くて旨い店、食べ放題の店、新しく建つビルに入る有名レストランやらスイーツ専門店の紹介などで、食、食、食のオンパレードだ。

中でも肉は、現代日本人の食生活に欠かせないものとなっている。

外食では、焼肉、焼きとり、とんかつ、しゃぶしゃぶ、ステーキ、ハンバーガー、フライドチキン、ラーメン・・・
家庭では、ハム、ウィンナー、ベーコン、ハンバーグ、肉の入ったカレー、シチュー、すき焼き、豚肉のしょうが焼、鶏のからあげ・・・

なのに、私たちがその命と肉をいただいた動物たちが、どのように生まれ、生き、殺され、加工されたかたちで店に並ぶのかを、ほんとうの意味で認識している人は少ない。

魚を三枚におろしたことはあっても、牛や豚を解体したことのある主婦はいないだろう。

″マグロの解体ショー″などという、残酷な見世物を売り物にしている寿司屋の広告を見たことがあるが、牛や豚の解体ショーいうのは聞いたことがない。


と場は高い塀で囲まれている。
そこでの仕事に携わる人たちの人権を守るために中での撮影は禁止だ。
その仕事に従事する人への差別へつながることからだという。

しかしじつは、人権を擁護している側の者も差別する側の者も、同じように肉を食べることでその需要を拡大しつづけることに加担しているわけだし、差別している者は、歴史からみても、自分たちのその差別意識こそが、そうした雇用の場をつくりだしてきているという自覚はない。

そのような問題を抱えた人間社会に巻き込まれてきた何の罪もない牛や豚たちが、刑務所のような高い塀の向こうで、誰の目にも触れず、誰の耳にも声が届かないところで、毎日オートマティックに殺されていく・・・。

私たち人間の飽くことなき食への欲望だけのために、だ。


先にBookmarksの中にあるサイトを訪れて、さらに中の映像へすすむ勇気のあった方は別として、
あえて私のブログの文中には、ワンクリックで、いきなりショッキングな画像が流れるようなレイアウトにはしていない。

ほんとうのことをいえば、そのように予告なしで全員に見てもらいたい、というのが本心だが、まず偏見をとりはらってから、納得の上で見ていただきたいという気持ちもあるのである。

そういった画像のオリジナルを見ることが出来るのは、動物愛護団体のサイトがほとんだが、動物愛護団体というだけで、“うさんくさい”と思われる方もいるであろう。

中にはそういった団体も存在するかもしれないが、それは動物愛護関係の団体に限ったことではないので、どうかそのような偏見は捨てていただきたいと思う。

私の場合は、それらのどの団体に属しているわけではなく、あくまでもブログという場で個人的に活動しているだけだが、自分のブログに載せるからには、それだけ真剣にそれらの団体を見極めたつもりだ。

その中で私なりに信頼出来るところをのせているので、どれほどショッキングな映像だとしても、それらはすべて「やらせ」でも「合成」でもなく、今この世の中で起きている「真実」だということだけは、強調して申し上げておきたい。

その真実の「ブラックボックス」は、自分の手で開けようと努めない限りは私たちの目にふれることはない。

私は自分の意思と手をもってそれを開けて確かめる勇気を持てたが、そう出来る人ばかりではないのはわかっている。

だからどうしても見たくない、見ることができないという人がいても仕方がないことだと思うが、そういった人たちにも、この一つだけはどうしても言葉で伝えたいことがある。

それは、私たちが、「いただきます」という言葉でどんなに感謝の気持ちを表したとしても、動物たちの耳にはその言葉はけっして届かないということだ。

食肉として生まれた牛や豚たちは、早くに親から引き離され、風の香りをかぎながらのんびりと草の上にに横たわることもなく、生きる喜びを知ることのないまま、最後は恐怖と苦しみの中で死んでゆく・・・。





屠殺場の壁がガラス張りならば、人々はみんなベジタリアンになるだろう。
                      - ポール・マッカトニー -



私はいちど聞いたことがある。

丹沢登山の帰りの夕暮れどき、行きも通った登山口付近まで戻ってきたところで、豚の絶叫が聞こえてきた。
その悲鳴からそれは数匹という数ではなかった。
一歩一歩進むごとに、その声は怖くなるほど大きくなり、すぐそこで何かが起こっていた。

暗く深い木立の向こうは、目を凝らしても何も見えなかったが、そのうちにパンッ、パンッという、銃のような音が定期的に聞こえ、そこでどのようなことが起こっているか想像がついた・・・。
いっきに頭から血の気が引き、その場にしゃがみこんで耳を覆ったのだった。


今回の口蹄疫で牛たちを殺処分が終わったあと、その畜産農家の人が涙ながらに語ったこの言葉が虚しく耳に残った。

「食べられる前に殺されなければならなかった牛たちのためにも、絶対また再生してみせます!」

違うのだ・・・。
牛たちが望んでいるとすれば、その反対のことなのだ。

いずれ私たち人間が肉を食べなくなり、家畜として生まれ、生き、殺されていく牛豚鶏のいない未来を目指すことだけが、唯一彼らへ感謝と償いになるのだと思う。





イギリスの郊外で見かけた野放しの豚たち