2010/06/16

She's a Veagan - Joan Jett





ジョーンのオフステージの素顔も加えておこう。タフなイメージとは裏腹に、アース・フレンドリーで、自然をこよなく愛す。樹木、草木、鳥、太陽、虫でさえも大切にし、リサイクルも積極的に行っている。照明も殆どつけず、暗い部屋で過ごすほどの徹底振り。さらに節水まで実施して、日常から自分の必要な物を最小限にしている。食生活でも、昔は血も滴るレア・ステーキを好んでいたが、今ではすっかりベジタリアンになった。    -WeROCK city より-







70年代にジョーンが所属したガールズバンド、
日本でも公開予定だ。














 

2010/06/15

工場式畜産 Factory Farming


古代ローマ、中世、現代に至るまで、人間だけがその知恵を駆使して、動物だけでなく同じ人間を残酷な方法で苦しめてきた歴史がある。

現在、畜産業界に導入されている、効率だけを追求したアメリカ式ともいえる工場式畜産。
牛、豚、鶏たちの命を、人間が利益を得るために搾取する単なる商品とみなした、残酷きわまりない拷問に等しい畜産方法だ。

動物福祉先進国のヨーロッパでは、すでに禁止されているものが多い。



いっさい緑すらないアメリカの巨大な牛農場
上空から見ると、この何倍もの大きさである



牛はクレーンでこの重い体を片足だけで吊りあげられる
それだけでも耐えがたい苦痛だ




乳牛も最後には食肉になるということをご存知だろうか



いま輸入肉はわたしたち日本人の食生活にも欠かせないものとなっていて、それらはすべて私たちの肉食の欲望を満たすためだけに、工場式畜産という残酷な方法で大量にコントロールされている命である。



横にもなれないこの木枠(クレート)の中で一生を過ごす豚
食肉用の子牛も同様であり、
その残酷性からEUでは使用が禁止されている



繁殖用の雌豚は妊娠中の約3か月もの間
ストールとよばれるこの枠に拘束され、
向きを変えることもできない



夜にも人口照明をあてられ、日に2度排卵を起こさせられる鶏
すし詰めのケージで2年もの間卵を産まされ続け、
力を使い果たしたとみなされると殺処分される



____________________________________________



The Farm Sanctuary's Virtual Experience  


このサイトでは畜産農場の現場をバーチャルで体験出来るようなっている。

残念ながら、こういった日本語のサイトはなかなか見つけることが出来ないので、どうか英語だからと面倒くさがらずに、翻訳ページを使ってでも、ぜひ覗いてみていただきたい内容のものだ。

なぜなら、今では輸入肉やこうした畜産方法は、私たち日本人の食生活に無関係ではないからである。


カメラを首からさげた女の子が畜産農場をレポートするという、アニメーションスタイルになっていて、画面の中に何カ所かづつクリックできるポイントがある。

ほとんどの動物の扱いについて説明されているので、ぜひ農場の隅から隅までを見学していただきたいと思う。

またれぞれの画面のはじめに出る、動物福祉への思いが込められた著名な人々の言葉も、ぜひひとつひとつ読んでいただきたいと思う。


前の投稿でも書いたが、肉食は人間の体にとって必要がないことが、現在はっきりとわかっているし、それどころか、心臓病・大腸ガン・乳ガン・子宮ガンなど、むかしの日本人にはなかった死因にもつながっているということも常識になっている。

じつは「キレる」「うつ」などの増加も、社会的背景のほかに現代の食生活が密接に関係している、ということがわかっている。
ホルモンのバランスが性格をつくるといっても過言ではない。

それでも「どうしても食べたい」という理由で肉を口にするのであれば、せめてバーチャルでも、その痛みと苦しみを伴って死んでいった動物たちの生涯をぜひ見届けてほしい、というのが私の願いだ。

そうすることではじめて「いただきます」という言葉がどれほどの重みを持つのかを真に理解出来るのではないだろうか。

いま私たちは「いただきます」を口にモノを頬張る前の決まり文句のように乱用してはいまいか・・。

実際、自らの手で野生の動物をしとめなければ、命をつなげない場所に暮らしている人々は、そういった命の重みをしっかりと受け止めているということが、その言葉や生活の中にうかがえる。

しかし私たち日本人が肉を食べるのは、そういった生きるか死ぬかの次元ではなく、これも繰り返しになるが、たんに「食の嗜好」としてなのである。

しかも、私たちがそれら動物を自らの手で育て、その成長を見守り、自らの手で殺めることはほとんどない。


「いただきます」と言っていただく命が、もともとはどのように生きていたもので、どのようにして食卓に並ぶのか・・・。

肉についても野菜や魚と同じように、ぜひそうした事実を知ってから、もういちどあらためて考え、食べるか食べないかの答えを出してほしいと願う気持ちでいる。










 
 
 
 
 

2010/06/13

She's a Vegetarian フジ子・ヘミングさん

 
フジ子・ヘミングさんの優しさと人間味あふれるエッセイ





動物愛護についてもふれている Click ↑








 
 

2010/06/09

畜産動物の悲しみ Ⅱ

 
 

幸福なことに、私たちの世代は、いつ空から爆弾が落ちてくるか、いつ家族や友人を奪われるかなどという心配などしなくてすむ平和の中で生きている。

さつまいもやかぼちゃだけを食べ続けた経験などないし、ましてや空腹で拾い食いや物乞いなどしたこともない。

終戦直後の食べ物がない時代から、ここまでの日本にする苦労すらしてきていない私たち世代が、気分しだいで和・洋・中、また麺類ひとつとっても、日本そばからパスタまで、とんでもなく贅沢な食の選択が出来る世の中だ。

テレビも、情報雑誌も、安くて旨い店、食べ放題の店、新しく建つビルに入る有名レストランやらスイーツ専門店の紹介などで、食、食、食のオンパレードだ。

中でも肉は、現代日本人の食生活に欠かせないものとなっている。

外食では、焼肉、焼きとり、とんかつ、しゃぶしゃぶ、ステーキ、ハンバーガー、フライドチキン、ラーメン・・・
家庭では、ハム、ウィンナー、ベーコン、ハンバーグ、肉の入ったカレー、シチュー、すき焼き、豚肉のしょうが焼、鶏のからあげ・・・

なのに、私たちがその命と肉をいただいた動物たちが、どのように生まれ、生き、殺され、加工されたかたちで店に並ぶのかを、ほんとうの意味で認識している人は少ない。

魚を三枚におろしたことはあっても、牛や豚を解体したことのある主婦はいないだろう。

″マグロの解体ショー″などという、残酷な見世物を売り物にしている寿司屋の広告を見たことがあるが、牛や豚の解体ショーいうのは聞いたことがない。


と場は高い塀で囲まれている。
そこでの仕事に携わる人たちの人権を守るために中での撮影は禁止だ。
その仕事に従事する人への差別へつながることからだという。

しかしじつは、人権を擁護している側の者も差別する側の者も、同じように肉を食べることでその需要を拡大しつづけることに加担しているわけだし、差別している者は、歴史からみても、自分たちのその差別意識こそが、そうした雇用の場をつくりだしてきているという自覚はない。

そのような問題を抱えた人間社会に巻き込まれてきた何の罪もない牛や豚たちが、刑務所のような高い塀の向こうで、誰の目にも触れず、誰の耳にも声が届かないところで、毎日オートマティックに殺されていく・・・。

私たち人間の飽くことなき食への欲望だけのために、だ。


先にBookmarksの中にあるサイトを訪れて、さらに中の映像へすすむ勇気のあった方は別として、
あえて私のブログの文中には、ワンクリックで、いきなりショッキングな画像が流れるようなレイアウトにはしていない。

ほんとうのことをいえば、そのように予告なしで全員に見てもらいたい、というのが本心だが、まず偏見をとりはらってから、納得の上で見ていただきたいという気持ちもあるのである。

そういった画像のオリジナルを見ることが出来るのは、動物愛護団体のサイトがほとんだが、動物愛護団体というだけで、“うさんくさい”と思われる方もいるであろう。

中にはそういった団体も存在するかもしれないが、それは動物愛護関係の団体に限ったことではないので、どうかそのような偏見は捨てていただきたいと思う。

私の場合は、それらのどの団体に属しているわけではなく、あくまでもブログという場で個人的に活動しているだけだが、自分のブログに載せるからには、それだけ真剣にそれらの団体を見極めたつもりだ。

その中で私なりに信頼出来るところをのせているので、どれほどショッキングな映像だとしても、それらはすべて「やらせ」でも「合成」でもなく、今この世の中で起きている「真実」だということだけは、強調して申し上げておきたい。

その真実の「ブラックボックス」は、自分の手で開けようと努めない限りは私たちの目にふれることはない。

私は自分の意思と手をもってそれを開けて確かめる勇気を持てたが、そう出来る人ばかりではないのはわかっている。

だからどうしても見たくない、見ることができないという人がいても仕方がないことだと思うが、そういった人たちにも、この一つだけはどうしても言葉で伝えたいことがある。

それは、私たちが、「いただきます」という言葉でどんなに感謝の気持ちを表したとしても、動物たちの耳にはその言葉はけっして届かないということだ。

食肉として生まれた牛や豚たちは、早くに親から引き離され、風の香りをかぎながらのんびりと草の上にに横たわることもなく、生きる喜びを知ることのないまま、最後は恐怖と苦しみの中で死んでゆく・・・。





屠殺場の壁がガラス張りならば、人々はみんなベジタリアンになるだろう。
                      - ポール・マッカトニー -



私はいちど聞いたことがある。

丹沢登山の帰りの夕暮れどき、行きも通った登山口付近まで戻ってきたところで、豚の絶叫が聞こえてきた。
その悲鳴からそれは数匹という数ではなかった。
一歩一歩進むごとに、その声は怖くなるほど大きくなり、すぐそこで何かが起こっていた。

暗く深い木立の向こうは、目を凝らしても何も見えなかったが、そのうちにパンッ、パンッという、銃のような音が定期的に聞こえ、そこでどのようなことが起こっているか想像がついた・・・。
いっきに頭から血の気が引き、その場にしゃがみこんで耳を覆ったのだった。


今回の口蹄疫で牛たちを殺処分が終わったあと、その畜産農家の人が涙ながらに語ったこの言葉が虚しく耳に残った。

「食べられる前に殺されなければならなかった牛たちのためにも、絶対また再生してみせます!」

違うのだ・・・。
牛たちが望んでいるとすれば、その反対のことなのだ。

いずれ私たち人間が肉を食べなくなり、家畜として生まれ、生き、殺されていく牛豚鶏のいない未来を目指すことだけが、唯一彼らへ感謝と償いになるのだと思う。





イギリスの郊外で見かけた野放しの豚たち






 
 
 
 
 
 

2010/06/06

Meet Free Monday

 
 
私のまわりでは、家族も友人も(現在は)肉を食べるが、みな思いやりあるやさしい心の持ち主たちばかりだ。

肉を食べるからといって、私がそれだけで人を否定的にみたことはないし、まわりのみんなも私は私の考え方として尊重してくれているので、家庭でも外食でも楽しく一緒に食事をいただくことができる。

多くの人は“そのこと”を理屈では理解しているので、押しつけなくとも、私自身が徹して主義を貫いていれば、必ずそれを人は見ているし、何かを感じてくれているはずだからだ。

ブログによる活動も含め、それらのことは静かなる影響力をもって、確実に周囲に変化をもたらしていくし、実際にその変化を実感することがある。

その喜びが自分のパワーとなっていく。


しかし中には、その人が肉を食べるからという理由だけで、他の人とうまくつきあっていけないベジタリアンたちもいるようだ。

以前どこかのサイトで見かけたのだが、肉を食べないということをオープンにしただけで、友人が去ってしまうのではないかという不安や悩みを抱えていたり、実際に孤立してうつ病になってしまった、というような話だった。

そのことを口にするまでは、その友人と日常的に親しいつきあいをしていたのなら、そうなってしまうのは本当に悲しく残念なことだと思う。

きっとそこまで追いつめられてしまうのは、“ALL OR NOTHING” という考え方から自分をがんじがらめにしてしまうからではないだろうか・・・。
その結果、相手にも自分にも妥協することが出来なくなり、追いつめられてしまうのかもしれない。


全てを同じ価値観で共有できる友だちなどなかなかいないものだ。
つきあいが長ければ長いほど、ある日突然意外な一面を見せつけられてビックリすることも、互いにあるだろう。

それでも互いの違いを尊重しながらもつながっていられるのが、真の友情だというのが、今の友人たちに囲まれて私がしみじみ思うことだ。

親しいからこそ、この人に聞いてほしい、賛同を得たいと思うのもふつうの感情なのだろうけれど、一緒に食事をしながら肉食を非難してみたり、顔を合わせるたびに動物愛護を語ってみるのは無謀というものだ。

真の友人であれば、自分が相手に正直であることで、相手も自分に正直であってくれるはずだ。

つまり、自分が動物愛護の考えから肉を食べないのだ、ということを正直に話すだけでいい。
そこで離れていく人は離れていくし、そのままかわらぬ友人でいる人ならば、相手のそういった考え方を尊重し、理解してくれる人なわけだから、その友情は大切にしてほしいと思う。

私だって、いくら親しいとはいえ、関心のないことをいきなり延々と語られたら、その人を煩わしく思うし、それが二度も続けば、会いたくもないと思ってしまう。


いまの世の中では、たとえ僧侶が倫理的なことを説いたとしても、何を食べるか食べないかは最終的に個人の選択でしかない。

ただ、そう言っている私があえてブログで書く目的は、私たちが口にする肉が、どのようにしてスーパーやレストランに並ぶかだけは、ぜひ知ってほしいという願いからである。

だからといって無理やり目や耳をこじあけて、知ってもらおうというのではない。
このブログも、たまたまここへきて関心を持ってくれた人に読んでもらえるだけで、じゅうぶん意義があると思って書いているものだ。

いずれ書くつもりでいるが、特に女性が日常的に愛用している化粧品や、ヘアケア製品開発のための動物実験についても同じ気持ちだ。

なぜなら知ることで、変わる人はいるからだ。

実際に私がその一人だ。

私も10代までは肉を食べていた。
「おいしいおいいしい」と言って食べていたのだ。


豚 = 豚肉

牛 = 牛肉

鶏 = 鶏肉 


極端な言い方をすれば、ある時期まではそれらに近い認識だった。

その私が、いまこうしてここで『畜産動物の悲しみ(6/5更新) 』というタイトルで熱心にブログを書いている。


それまで知らずにいた胸が張り裂けるほどの悲しい現実が、いかに私に影響を与えたかということを、少しは想像していただけるのではないかと思う。



link to  " Mac + Veg - Blog"













2010/06/05

畜産動物の悲しみ

今話題の iPad 
妻は厳格なビーガンである



「人間は生きるために食べるべきであって、味覚を楽しむために食べてはならない。」
                                   マハトマ・ガンジー


ガンジーも主に動物愛護の観点からこう云ったのだと思うが、新鮮な野菜の味や、料理の味を楽しむことは私にもあるので、私の場合はこの言葉を少しかえさせてもらい、

「人間は生きるために食べるのであって、食べるために生きているのではない。」 

このように自分に戒めている。



私たち日本人は、いつのまにか欧米型の食生活が中心となった。
それに伴い、かつては少なかった病気にもかかるし、それによる死亡率も急増した。

男性はメタボ解消、女性はアンチエイジングと、新たな言葉に踊らされ、日々そういったことに涙ぐましいほど一生懸命になっている。


長く続けてきた食習慣を変えるのは、簡単ではないかもしれないが、それほど難しいことでもない。

私自身ははじめは健康上の目的から、その後に動物愛護の考えから肉を食べることをやめた。

肉を食べないことは、肉体的にも精神的にも、想像以上にすばらしい結果をもたらしてくれるということは自分で体験し、実感している。
なので、内心はいつかみんなも少しづつでいいから、そうなっていってくれればいいな~と、思っている。
なぜならそういった一人ひとりの変化は、本人のからだにだけでなく、地球にもやさしくなることにもつながっていくからだ。


ほかの先進国に比べ、まだまだ日本には環境保護や動物福祉からのベジタリアニズムが普及していない。

すくなくとも私たち日本人は、わざわざ残酷な方法で動物たちの命をいただかなくとも、ほかに食べるものはいくらでも豊富にある。

また、これは多くの人が誤解していることだと思うが、じつは人間は肉を食べなくとも、栄養学的にはなんら問題はないことが、現在ははっきりとわかっているのだ。 (大豆などはりっばな良質のたんぱく源である)

つまり、肉を口にするということは、お酒やたばこと一緒ということになる。
それは生きていくのに必要なのではなく、「嗜好」にすぎないということだ。

イルカ・鯨肉についても同じである。

なぜそうまでして、イルカや鯨を殺して食べ続けるという「伝統」を死守したいのかが、私にはどうしても理解ができないのだ。
時代は移り変わる・・・と共に変わっていかなければならないこともあるはずだ。

一部の人たちの反対抗議デモにより今回東京の全映画館で「ザ・コーヴ」の上映が中止になった。
私個人の感想を一言でいえば、「残念」である。
なぜならば、あの映画は決してただの人種差別的な日本バッシングの映画ではないからだ。

感情論で国や人間同士互いを非難しあう以前に、スペインの闘牛もそうだが、文化や伝統という「もっともらしい口実」で殺される鯨の身にもなって考えてみる、ということは出来ないだろうか。
本当の犠牲者はいったい誰であるか、をよく考えてみてほしいと思う。

あれだけ牛や豚や鶏を食用に殺している欧米の映画に、ああいったかたちで日本を世界に知らしめられるのは、たしかに日本人としては悔しいかもしれない。
しかし監督のルイ・シホヨス氏がベジタリアンだというのはたいへん説得力があるし、真実は真実として知りたいと思う日本人もたくさんいるということも現実なのだ。

 
口蹄疫』の問題は、その根底に、私たち現代の日本人が、貪欲に牛や豚たちの命を身勝手に奪い続けているということを、真剣に考えなおさなければならない時期にある警告ではないだろうか。
・・・と、私は思いたい。

しかし悲しいかな、現実はそんな私の思いとは逆行しているようだ。

先日の新聞では、宮崎県の畜産農家を救おうと、バーベキュー大会の企画をするなど、肉の「さらなる消費」を一生懸命呼びかけている人々の運動を大きくとりあげていた。
しかしその反対側で、生まれながらに「家畜」という名を付けられ、人間に思うように扱われ続けてきた動物たちを、もう苦しみ・悲しみから解放してあげたいと思う人はどれほどいるのであろう。


畜産農家の人の立場だけではなく、牛や豚の立場を想像し、心を痛めることはけっしてズレていることではないはずだ。

なにしろ恐ろしい数の牛と豚が殺されている。
恐ろしい数だ!
いずれは殺される運命であっても、こんな悲惨なことってあるだろうか!


こういった多くの問題がたいていは人間の都合によって引き押おこされ、いつもいつも犠牲になるのは、言葉をもたない動物たちである。


新聞・テレビでの報道を見ながら、毎日大量に「処分」(大嫌いな表現である)され続けている、牛や豚のこと思い、胸を痛め涙をこらえる私はただのセンチメンタリストであろうか・・・。



















2010/05/24

観光馬車 Carriage Horses Of New York City

 
5/5付で投稿した「ポニータクシー」の中で、ニューヨークの観光馬車についてふれたが、ちょうどそれに関するコラムがおとといの新聞にのっていたので、そのまま転記する。



ちきゅう遊山  「世界一気の毒な馬

摩天楼を見上げながらパカパカ進む馬車は、ニューヨークの観光の定番のひとつ。だが馬たちには相当つらい仕事だったようで、馬の待遇を大幅によくする市条例が4月末に制定された。
年に5週間は馬に休暇を与えること、極寒の日は毛布をかけてやること、午前3時台に営業しないこと、老いたら引退させてやること。盛りだくさんの新ルールを見ると、これまでの労働環境の過酷さがよくわかる。




馬車馬たちの日常を覆面捜査した愛護団体によると、馬小屋は狭くて換気も悪く、ヨボヨボになっても毎日9時間働かされ、いつも渋滞の道路で排ガスを大量に浴び、牧場で憩う自由もない。「世界で最も気の毒な馬たち。観光馬車そのものを営業禁止にしてほしい」と訴えている。  (山中季広)

















世界中にこのような目にあっている馬たちがいるが、幸い日本ではここまでひどい境遇の馬を見ることがない。

しかしいずれにしても、このような動物を犠牲にしての観光産業そのもの自体が、決してそんなふうに“程度の問題”だけで片付けてしまう問題とは違うのだ、と私は考えている。














2010/05/22

アンジュール UN JOUR, UN CHIEN




文字はない。


デッサンだけである。


なのに、これほどまでに心を打つ本に出会ったのははじめてだ。


ぜひ手にとってみていただきたい感動の一冊である。













 
 
 
 
 


 

2010/05/09

no title

日本では動物愛護啓蒙活動にかかわることには勇気と覚悟がいる。
「動物愛護」という言葉だけで、拒絶反応のようなものを示す人も少なくない。

個人より集団、の日本では信念を貫くことに本当に苦労する環境である。
動物愛護を訴えるだけで、なぜか宗教的扱いや、人や社会に溶け込めない変わり者扱いされることさえある。
私にしてみれば、そのほうがよっぽど ″変〟に思えるのだが・・。
みな本気でそう思っているのだろうか??
それとも集団からはずれることを極度に恐れる民族性の裏返しであろうか。


大人社会の中でも、本当はこう思っているが、それを口にすると自分が孤立するのではないかと躊躇したり、思ってもいないことに賛同しなければいけないような空気を感じとると、自分を殺して周囲に同調しなければ、自分一人だけが大人げないような自己嫌悪すら感じさせる場面が多々ある。

あえて和やかな空気をぶち壊したり、意図的に人を傷づけるようなことを言うのであれば、そうともいえるであろうが、やはりここは言わなければ、ここで行動に移さなければ、というときは誰にでもあるはずなのだ。
そうしないでおいて、あとになって自分は本当はこう思っていたのにとか、こういうことは望んでいなかったと愚痴ることは、それこそもっとそ大人げないことだと思う。

ときには友人にさえ、疲労するほどの気をつかい演技しなければならないなんて、それは友情と呼べるものなのだろうかと私は思うのだが、それでも多くの人はそういった苦労以上に孤立することのほうを恐れる。


動物に関心がない人はまったくない。
私がギャンブルに興味がないのと一緒だ。
そのような人たちはこういったテーマのブログ自体にまったく関心を持たないだろうし、否定的な印象すら持つだろう。

有名でも何でもない個人のブログで、何かを訴えていくこと自体、たいへん地道な活動の継続ではあるが、たった一人でも絶対にこれをどこかで誰かが読んで共感してくれる!という信念で続けていくことが大事だと考えている。
この場で実感や手応えがなくても、投げずに続けることに意味があると強く信じている。

私のような普通の社会で普通に生活している人間でも、小さな波を起こせるということ。
そしてその小さな波動がどんどん高く、大きくなる可能性があるということ。

実際に私も同じテーマでほかの人たちが書いたブログを読んだことで、勢いがついた。
自分も加わることでその人たちの力をもっと大きくしたいと思ったのだ。



人生の時間は限られている。
本人が長生きしたいと思っても、明日何かで死ぬかもしれない。
欲張って世の中を変えたいと思っても、あれもこれもというわけにはいかない。
一日一分一秒でも早く、一度きりの人生の中で自分がしたいこと、出来ることをはっきりさせ、それを行動に移すことがとても大事だと私には思える。

そしていくら孤独を恐れても、人は誰しも最後は一人で死んでゆく。
人は死ぬことを意識してはじめて生きることを真剣に考える。

生まれてきた意味など私にはわからない。
こうして人間として生まれたのも、ただただ奇跡と思っている。

そして世界を知れば知るほど、自分が恵まれていることを実感する。
だからといって、あー幸せだと暮らしているかといえばまたそれは違うのだ。
その反対側にはまったく違う世界が存在することを知っているからだ。

飢餓、貧困、暴力・・・
そこで苦しみと共に生きている人々がいる。

そしてまた、その人間に苦しめられている動物たちがいる。

人間と動物を一緒にするな、という人はたくさんいると思う。
昔からそのように動物を蔑視する価値観は言葉やことわざにも表れている。

でもそれは時代遅れな無知というものだ。
動物について知れば知るほど、彼らがいかに感情豊かで知性ある生き物かというのがわかるはずだ。
そのことがわかったとき、これほどの知性を備えた私たち人間が、いかに愚かで残酷な仕打ちを彼らにしているかということを悟り、胸を痛めることになるであろう。

私は言葉なき動物たちへ一方的な暴力をふるい続けている、自分と同じ人間を相手に抵抗の拳をあげている。
つまり動物側の立場に立っているわけだ。
それは言い方を換えれば、人間を敵にまわしていることなのかもしれない。
しかし、この先立ちはだかっているかもしれない孤立感や孤独もまったく恐れていない。
それが私の「信念」だからだ。

私のそれとはまったく次元が異なるが、トルストイやマザー・テレサでさえ、社会から目をそむけられている人々のために無償の愛と労を注ぎ、あれほど多くの民衆に愛されながらも、孤独と絶望の中で苦悩している。

この地球の、いつどこで何に生れ落ちるかを、自分で選ぶことが出来ずに、私たちはみな生まれてくる。
せめて今はこうして恵まれて生きていることへの感謝と、何かのために生涯を通して自分が貫いてゆきたいことを見出すことが出来れば、むしろ集団の中の孤独より、喜びを感じることが出来ると、私は信じている。
















2010/05/05

ポニータクシー Pony Taxi

 
 
来週小さな旅行を控えているので、この連休はなるべくお金を使わずに過ごした。

家の近所から離れなかったので、街中の様子がどうだったのかもわからないが、今年のGWは天気もよかったし、みなとみらい~元町・中華街あたりはかなり賑やかだったのではないだろうか。
ひと昔まえと違い、土日ですらさほどでもない横浜の観光スポットも、連休のときだけは多くの人出で活気づく。

道路の混雑が予想される休日は、ちょっとしたドライブなら車よりも自転車が懸命だ。
横浜はなにしろ坂道が多いが、足腰を鍛えるトレーニングにもなると思えば、それはそれで楽しめる。

とくに寒くも熱くもないこの季節は自転車に乗るのにはとても気持ちがよい。
夕方頃家を出て、赤レンガ倉庫のあたりを、潮風にあたりながら、くぅるくぅると子供のように愛車で徘徊するのが好きだ。
そうすると家に帰ってくる頃にはいい感じにお腹も空いている。

なので決してそれをチェックしに出かけているわけではないのだが、その辺を通るたびに、つい目で探してしまうものがあるのだ。






ポニータクシー。
見かけたことはないであろうか。
何年か前からみなとみらい周辺をを拠点にしている。

この光景を見て、ほほえましいと思うか、かわいそうだと思うか・・・
人それぞれだとは思うが、私は子供の頃からこういった光景を見るとなにか悲しい気持ちになり、乗りたいと思ったことはなかった。

こういった光景はむかしから観光地のあちらこちらで見かけるが、
それでも見慣れるということはなかったし、あたり前の光景と割り切れるものではなかった。

のどかな田舎道をポックリポックリ・・・というのであれば、もう少し印象も違うが、馬が車と一緒に車道を歩くということ自体がまったく自然なことではないし、何よりも危険を伴う。
実際ニューヨークでは車との接触事故で馬が犠牲になる事故がしばしば起きているという。
また、アスファルトの道は馬の脚に大きな負担がかかる。


この写真をおさめたのとは別の日に、私は車でみなとみらい付近を走っていた。
私が直進レーンで信号待ちをしていると、となり左折レーンの前方にこのポニーを乗せた軽トラックが止まっていた。
携帯をカバンから取り出しているうちに信号が変わり、トラックは赤レンガ倉庫のほうへ左折していったが、私はそれを目で追いながら、心の中でポニーの労をねぎらった。

つながれたトラックの荷台で、左右前後に体を振られ、一生懸命バランスをとっているポニーの姿が、私の目にはやはりどうしても幸せなようには映らなかった・・・。



この2枚の写真はイギリスに住む親戚の家のすぐ目の前を歩いて行く野生の馬たちである。








 
 
 
 
 
 
 
 
 

2010/04/25

動物サーカス Animal Circus


毎週注文している某宅配サービスの注文カタログに
先週この広告が一緒に入っていた



(ちなみに動物たちの涙は加工)



子供の頃にサーカスを観に行ったことがある方もいらっしゃると思う。
子供は無邪気に喜んで見るものであろう。
私も、いつだったかも覚えていないのだが、どこからかチケットがまわってきて、リングリングサーカスに行ったことがあるが、漠然とした記憶しかない。 
ということは、そのときは何も感じず何も考えずに見ていた、ということである。


今日ここでお話したいのは、サーカスといっても、動物のサーカスについてである。 

私の人間的な成長、といえるのかもわからないが、その後動物への思いやりが深まっていき、人間のエンターテイメントのために利用されている動物たちについても、自然と無関心でいられなくなった。
のちに動物を使ったサーカスというビジネスの裏側を知り、過去に一度でも出かけて行ったという事実を、いまは恥じているくらいだ。

もしいま自分に子供がいてせがまれても、決して連れて行くことはないであろう。
そして子供にきちんと話して聞かせ、理解してもらえるよう努力するつもりだ。


サーカスで芸をさせられる多くの動物たちは、こどもの頃に野生の世界から捕えられ連れてこられる。
彼らは狭いコンテナの中に閉じ込められ、長距離を移動させられ、見世物として生きていく。
熱く空気のうすいコンテナでの移動中に命を落とすことも少なくない。

ご承知のとおり彼らは動物だ。
自ら志願してサーカスに入団し、自ら磨いた技を観客に披露することで喝采を浴びたいわけではない。
それによって収入を得て家族を養うためでもない。
あくまでも人間に捕らわれたのである。


極限のストレスからサーカス団員や、観客に襲いかかることもある。
サーカステントからの脱走を試み、射殺される象もいる。
なぜそうなるのか・・・答えはかんたんだ。
みなそこにいたくないのだ! 
広大な森と大地に帰りたいのだ。
そこで彼らは生まれ、そこが本来彼らの生きていく場所なのだ。

私たちが今日突然自由を奪われ、家族から引き離され、コンテナに閉じ込められ、知らない土地に連れ回され、言うことを聞かないと痛めつけられる。
そんな生活にひきずりこまれたら、どうなるであろうか。

人間に対する、拉致・監禁・虐待はときには政治的な問題にまで発展する深刻な事件である。
しかし、こと動物たちに対してはそれが許されているのだ。
いつになれば、彼ら動物たちが、私たちと同じように感情を持つ生き物だということを理解してもらえる日がくるのだろうか。

人間など簡単にしとめられる大きな体や牙を持ちながら、動物たちがなぜそうしないのか。
なぜ人間のいうとおりに、したくもない芸をするのか・・・。
それは怖いからである。
相手の脅威を知っているからである。
相手が手にしているもの(ムチ、スタンガン、鉤状の調教棒など)が、自分に大きな苦痛を与えるものだと知っているからである。

囚われの身となったあと、人間のいうことを聞かなければ、痛みを与えられる、食べるものは与えられない、という「罰」を彼らは思い知らされるのである。
痛みと飢えへの恐怖から、芸を叩き込まれるのである。

これがサーカスに捕らわれた小象を待ちかまえる運命である 

「罰」せられるべきはどちらなのかは、火を見るよりも明らかだ。


野生の象が、体に隠れてしまうほどの小さな椅子に座ったりするだろうか。
野生の熊が、自ら自転車やオートバイに乗ったりするだろうか。
野生のトラが、本来恐れる火の中をくぐったりするだろうか。

「動物サーカス」、それは人間特有の歪んだ娯楽欲求を満たすための残酷な見世物でしかない。

シルク・ドゥ・ソレイユのような動物を苦しめることなく、楽しめるサーカスもある。 
ぜひそのような、やさしいサーカス団の公演を、楽しんでいただきたいと思うのである。


最後に貼らせていただいた下のリンクの映像は、動物愛護団体PETAがビデオにとらえた、サーカス舞台裏で行われている動物への暴力の実態です。

Ringling Bros. and Barnum & Bailey Circus
 
(英語サイトですが、映像だけで十分に伝わってくるものです。)


-サーカスに捕らわれている動物たちが、一日も早く苦しみから解放される未来を願います- 
 
 
 
 
 
  

2010/04/22

寝る前に・・・猫虐待のニュース

 
今日は付き添いで一日病院に行っていたので、少々おつかれ、早く寝たいモード。

何も書かないつもりだったが、夕飯のあと、刃物で40cmにわたり傷つけられた猫が、八王子で保護されたニュースを見た。

関連記事を見ると、おとといにも世田谷で薬品をかけられたことによるやけどを負った猫が数匹保護されていることを知った。

2月~5月にかけて、同じ公園で同じ虐待を受けた猫が7匹も見つかっているらしい。


・・・・。


イィーッ!!





「 ネコちゃんたち、ごめんなさい・・・ 」
          
         








 

 
 
 
 
 
 

2010/04/20

山梨 犬捨て山のいま

 
あのときからもう6年が経つ。

その後もマルコさんをはじめとする多くの方々の献身的な活動により、犬捨て山の状況はさらに改善され、三つのうちの一ヶ所はなくなったそうだ。

そして現在は帝京科学大学の学生さんたちが、HP山梨県 犬の多頭飼育問題の真実で、山での活動をブログでレポートしながら、犬たちを一匹でも多く幸せな家庭犬として送り出すべく、尽力されている。


猛暑の中も、吹雪の中も、一年一年、一日一日を山でなんとか生き伸びている犬たち。
みんなテレビコマーシャルや雑誌モデルとして出てくるような、小さなぬいぐるみのようなコたちではない。
いわゆる中型以上で“雑種”と呼ばれる犬たちである。昨今は〝MIX〟と呼ばれるようになった。

傷つき心を閉ざしてしまった犬たち。
人なつっこく甘えんぼうなのに、甘えられる里親に出会うことなく、年をとっていく犬たち。
病気になったり、衰弱したりして、山での長くつらかった一生を終える犬たち。

どの犬たちも勝手に飼い主のもとを脱走し、好きでそこに住みついているわけではない。
一匹一匹が人間の手によって、一方的にそこへ運ばれてきた命なのだ。
フワフワコロコロとしたちっちゃな仔犬のときだけは、撫でられ、頬ずりされ、可愛がられたのだろうか・・・。



 

山で「マルク」と呼ばれていた甘えん坊のこのコは
優しい里親さんに迎えられ、まもなく天国へ旅立った




このブログを読んでくださった皆様へ、私からのお願いです。

もし身近で犬を飼いたいという人がいらっしゃたら、犬捨て山や保護センターの話をしてみていただけませんか。
そしてぺットショップに高いお金を払わずに、里親を募集している犬たちをを家族に迎えることも、考えてみてはと、伝えてみていただけませんか。

話を聞いてくれても、結局その方はペットショップへ行くことになるかもしれない・・。
仔犬から育てたいというかもしれないし、この犬種でなきゃイヤだというかもしれない。

それでも、一度だけでも、話をしてみていただけませんか?

自分を置き去りにしていった飼い主をうらむこともなく、保護センターや犬捨て山のような場所で死んでいった・・・そして死んでいかなければならないかもしれない、心優しき犬たちの名誉と尊厳のために!

どうかよろしくお願いいたします。









 山から我が家に迎えたウリちゃん














2010/04/18

山梨 犬捨て山 Ⅳ

 
そんないきさつでジムニーに乗ることになったのだが、とても気に入った!
小柄な私には視界も高くなるしで、たいへん運転しやすい。
追い越しのときなどは、ややパワー不足でもどかしいのだが、なにしろ運転していて楽しい。

山梨までの道のりは一人で行くには決して近くはなかったが、ジムニーのおかげでドライブを楽しむことが出来た。ボランティアしたあとは、ただ帰るだけではなんだかなぁ~という気持ちもあり、日が暮れる前に、わざと舗装されていない山道を走ったり、水が流れているところに入っていってみたりもした。






そんなふうにジムニーを楽しみつつ、その後何回か一人で山へ行き、犬たちのお世話をした。
お世話といっても、一匹一匹頭を撫でて話しかけている時間はない。
山ではあっという間に日が暮れる。

空っぽの水入れに山から流れてくる湧水を汲み、犬たちのケージの中の汚物をスコップでバケツにすくっては指定の場所へ運ぶ。何回も・・・何回も・・。
トイレもないところだが、一匹でも多く水を変えてあげたい、ケージの中をきれいにしてあげたいという気持ちで夢中になり、自分のトイレも忘れてしまう。

当時は家族の同意を得られず、犬を飼うことが出来なかったので、それならばせめて・・という思いで山に出かけていったのだが、犬たちと向き合いながら冷静に考えていくうちに、毎日通えるならともかく、たまに来てお世話をすることよりも、ここから一匹でも多くのコが出て、一日も早く「こんな場所」はなくならければいけないと思った。

家に帰るとそんな「熱い思い」を家族に語り続け、理解を求めた。
そして数か月後、一匹のわんこ「ウリちゃん」を山から我が家に迎えることになった。
ウリちゃんのことはあらためて紹介したいと思う。







私の山でのボランティアはわずかな期間だったが、せめてマルコさんの活動の脚をひっぱるようなことだけはしなかったのか、今でもマルコさんとは年賀状の交換をさせていただいている。
ちょっとした相談や近況報告でメールを差し上げれば、お忙しい中も電話でお返事をいただける。
マルコさんとは話をしていてとても楽しい。
犬以外の話でもどんどん盛り上がる。

マルコさんだってほんとうは悲しい犬の話など、出来ればしたくないのだ。
そんな話をしないですむ日が早く来ればいいと、心から願うのである。














2010/04/16

山梨 犬捨て山 Ⅲ 

 
ー犬捨て山ー

その光景がいかなるものだったかを、あえてここで語ることはやめておこうと思う。

それは何行かで書き表わせるようなものではないし、私が見た光景がどんなに驚くべきものだったとしても、それはマルコさんとボランティアの方たちが、すでに何年もかけて改善されてきたものだった。

あの場に立って、心の底からマルコ・ブルーノさんという人を尊敬した。
マルコさんが初めて訪れた当時の現場がいかに悲惨な状況だったかを、想像は出来たとしても、実際に目にしたわけではない私が、ここでわかったようにあの山のことを語るのは、とてもはばかれると思うからだ。

こちらでマルコさんのインタビューと犬捨て山の写真をご覧いただきたいと思う。

http://www.petlink.jp/topic_interview/data/interview/004/interview004.htm


はじめは好奇心や、何とかしたいという気持ちから現場を見に来ても、その後二度と来ない人がほとんどだいうマルコさんの言葉に納得できた。
いくらふだんから犬が大好きな人でも、顔から笑顔は消え、しばらく立ちつくしてしまうだけだろう。

しかし、私が案内されたそこは、山の犬捨て場のまだ「1」であって、それとは別にそれぞれ車で10分もしないところに、「2」、「3」の犬捨て場があったのだ!!
私が見ても、3ヶ所合わせると何十匹ではないのは一目瞭然であったが、当初は400匹以上いたというのだから言葉も出ない。

3ヶ所の犬捨て場には、それぞれ一人づつ犬たちの世話をするおじさんがいた。
魔法の杖でもないかぎり、たった一人で何十匹の犬を世話出来るわけがない。
ケージによっては水はひっくりかえり、とっくに空っぽになっているし、
フードの入れ物には、フードと一緒に犬たちのオトシモノが入ってしまっていたりする。

スコップとバケツを持った「侵入者」の私に攻撃的なコは一匹もいなかった。
なぜならみんな一度は一緒に暮らした人間の手でここへ置き去りにされた犬たちだからだ。
そうでなければ、その後ここで生まれた犬たちで、人を知らずにケージの奥で、兄弟犬、姉妹犬と重なるようにブルブル震えてこちらを見ているだけのコたちだった。

どのコもみんな悲しい目をしていて、作業している私をじっと見つめていた。
伸び放題の爪に毛玉だらけの汚れた体。
中には甘えて遠慮がちに腕に顔をうずめてくるコもいる。
気持ちだけが空回りし、どうにもできない無力さに悲しくて悲しくて泣きたくなった。

一人でもまた来たい・・・。

ちょうど車の購入を考えていたときだったのだが、候補であったスバル・インプレッサを急きょ予定変更し、このジムニーシエラにしようと決めたのだった。










-つづく-



マルコ・ブルーノ氏が代表の動物愛護支援の会のホームページです



マルコさんが登場している映画です
現在は宝塚シネ・ビビアで上映中








2010/04/14

山梨 犬捨て山 Ⅱ

 
私が驚いたように、皆さんもきっと驚くだろうと思う。

富士山を望む美しい山梨県の、とあるところに、「犬捨て山」と呼ばれる場所が存在する。
一つあるということは、たぶん日本中にそのような場所が点在しているのではないだろうかと、私は想像してしまう。

もちろんそのような聞くも恐ろしい場所、はじめから存在しているわけではない。
山梨の場合、そもそもはなにやらとんでもない地主が土地がらみの問題に犬たちを利用したようで、多数の犬をそこへ放置したのが始めらしい。(そうすることで意図的に地価を下げようというもくろみだったのか)
そこへ、これまたとんでもない人間たちが、まるでゴミを収集場所に捨てる感覚で、次から次へと犬を置き去りにしていった・・・その結果だ。

今から16年前、その山に置き去りにされた犬たちの惨状を目のあたりにし、「見て見ぬふりは出来ない」と今日まで長年にわたり、犬たちの救済活動をされてきた、一人のオーストリア人がいる。
その人がマルコ・ブルーノさんだ。

はじめて山に案内していただく日、現場に一番近い高速のインターでマルコさんと待ち合わせをした。
そのときに見たマルコさんの車の状態で、どのような場所か少し想像は出来ていたが、実際ものすごいところであった。

山に入る前のところに自分の車を停め、マルコさんのワンボックスに同乗させていただいた。
中には人なつっこいマルコさんの愛犬が2匹乗っており、私が乗り込むと同時に一匹が膝に両足と頭をのせてきた。かわいかったな。

マルコさんの運転でいざ山道をのぼりだす。
うっかりボケっと口を開けていると舌を噛み切りそうな凸凹道に、体ごとシートの上でバウンドする。
しかしワンコたちは絶妙にバランスをとっている。スゴイな!
轍がひどく、一度はまったらどうにもやっかいなことになりそうだ。
あちこちから飛び出した枝がガシガシ車をひっかく。
申し訳ないが、正直自分の車でなくてよかったと思った。
それでもなんだかそのときに、きっとまたここへ自分で来る、と予感していたので、マルコさんの運転を観察しながら、その山道の攻略法などを頭でイメージしていた自分を記憶している。


着いた・・・。

・・・・。

(絶句・・・)


ものすごいところに、ものすごい数の犬であった。











-つづく-




2010/04/12

山梨 犬捨て山 Ⅰ



歩くことも自転車に乗ることも大好きなのだが、車も好きだ。
エコに反した乗り物ではあるが、住んでいる場所の条件によっては、たいへん助かる文明の利器であることは、やはり否定できないと思う。
私も生活上ありがたくお世話になっているひとりである。

結局、車がどうしても生活の一部になるのであるなら、その選び方も自分なりにこだわるところがでてくる。
異性との出会いにどこか似ているかもしれない。

会ったときにビビッっとしたものを感じる。
実際に話をしてみる。
よい印象をもてば、もっと相手のことを知りたいと思う。
さらにこのままずっと一緒にいたいなーと思い、おつきあいが始まる。

そんなような・・・?

もちろん人間同士の場合は、相手にも意思があるのだから、もっともーっと複雑だ。
ゆえにこれ以上先は例えようがないのだが。


さて、スズキ ジムニーの話になるが、以前、5ナンバーのジムニーシエラに乗っていたことがある。
インターネットで見つけたこの中古車が気に入り、横浜から電車で千葉の主水大橋というところまで取りにいったのがなつかしい。
まさに一期一会のご縁であったが、とても感じのよい担当の方だった。お元気だろうか・・。






 

 
 


この車を買うに至ったのにはワケがある。
一冊の本との出会いがきっかけであった。


なぜか、どこでこの本のことを知ったかは覚えていない。
しかし読んだときの内容はたいへんショッキングなものだった。

日本にこんな場所があるのか?!!
とても信じたくないことだったが、ほんとうだった。

その後、本の著者であるマルコさんとお話しすることができ、その「信じたくない場所」へ何度かボランティアで行くことになるのだが、そのときに活躍したのがこのジムニーシエラだった。



-つづく-







2010/04/09

Donkey Sanctuary

 
イギリスに住む親戚が、Donkey Sanctuaryに一泊150ポンドを支払って、ドンキーのお世話をするという体験をしてきたそうだ。

Donkey Sanctuaryとは、虐待にあったり、親をなくしたなどの、悲しい境遇にあったロバとラバを保護している施設だ。

HPの写真のMaryは、去年12月、北アイルランドの市場で、福祉役人Ms.Marie McCormack によって発見された。
施設に到着したときには、3日間立ち上がることが出来ないほどに衰弱しており、過酷な環境で重労働をしいられたことにより、Maryの脚は、痛々しく異常に大きくなってしまっていた。
さらに悲しいことに、周囲の懸命な努力も報われず、苦しんだ末に彼女のお腹のこどもは亡くなってしまった・・

いまMaryは元気になり、少しづつ歩くことも出来るようになってきたそうだ。

Mary,ほんとうにほんとうにおつかれさまでした。
Donkey Sanctuaryで幸せに暮らしてね。


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ロバ(手前)とラバ(奥) Donky & Mule




ネドです。よろしくね♪ Hi, I'm Ned. Nice to meet you♪




部屋のお掃除 Cleaning up their rooms




ごはんのお世話 Feeding the donkeys




もう仲良し! We're good friends!