日本では動物愛護啓蒙活動にかかわることには勇気と覚悟がいる。
「動物愛護」という言葉だけで、拒絶反応のようなものを示す人も少なくない。
個人より集団、の日本では信念を貫くことに本当に苦労する環境である。
動物愛護を訴えるだけで、なぜか宗教的扱いや、人や社会に溶け込めない変わり者扱いされることさえある。
私にしてみれば、そのほうがよっぽど ″変〟に思えるのだが・・。
みな本気でそう思っているのだろうか??
それとも集団からはずれることを極度に恐れる民族性の裏返しであろうか。
大人社会の中でも、本当はこう思っているが、それを口にすると自分が孤立するのではないかと躊躇したり、思ってもいないことに賛同しなければいけないような空気を感じとると、自分を殺して周囲に同調しなければ、自分一人だけが大人げないような自己嫌悪すら感じさせる場面が多々ある。
あえて和やかな空気をぶち壊したり、意図的に人を傷づけるようなことを言うのであれば、そうともいえるであろうが、やはりここは言わなければ、ここで行動に移さなければ、というときは誰にでもあるはずなのだ。
そうしないでおいて、あとになって自分は本当はこう思っていたのにとか、こういうことは望んでいなかったと愚痴ることは、それこそもっとそ大人げないことだと思う。
ときには友人にさえ、疲労するほどの気をつかい演技しなければならないなんて、それは友情と呼べるものなのだろうかと私は思うのだが、それでも多くの人はそういった苦労以上に孤立することのほうを恐れる。
動物に関心がない人はまったくない。
私がギャンブルに興味がないのと一緒だ。
そのような人たちはこういったテーマのブログ自体にまったく関心を持たないだろうし、否定的な印象すら持つだろう。
有名でも何でもない個人のブログで、何かを訴えていくこと自体、たいへん地道な活動の継続ではあるが、たった一人でも絶対にこれをどこかで誰かが読んで共感してくれる!という信念で続けていくことが大事だと考えている。
この場で実感や手応えがなくても、投げずに続けることに意味があると強く信じている。
私のような普通の社会で普通に生活している人間でも、小さな波を起こせるということ。
そしてその小さな波動がどんどん高く、大きくなる可能性があるということ。
実際に私も同じテーマでほかの人たちが書いたブログを読んだことで、勢いがついた。
自分も加わることでその人たちの力をもっと大きくしたいと思ったのだ。
人生の時間は限られている。
本人が長生きしたいと思っても、明日何かで死ぬかもしれない。
欲張って世の中を変えたいと思っても、あれもこれもというわけにはいかない。
一日一分一秒でも早く、一度きりの人生の中で自分がしたいこと、出来ることをはっきりさせ、それを行動に移すことがとても大事だと私には思える。
そしていくら孤独を恐れても、人は誰しも最後は一人で死んでゆく。
人は死ぬことを意識してはじめて生きることを真剣に考える。
生まれてきた意味など私にはわからない。
こうして人間として生まれたのも、ただただ奇跡と思っている。
そして世界を知れば知るほど、自分が恵まれていることを実感する。
だからといって、あー幸せだと暮らしているかといえばまたそれは違うのだ。
その反対側にはまったく違う世界が存在することを知っているからだ。
飢餓、貧困、暴力・・・
そこで苦しみと共に生きている人々がいる。
そしてまた、その人間に苦しめられている動物たちがいる。
人間と動物を一緒にするな、という人はたくさんいると思う。
昔からそのように動物を蔑視する価値観は言葉やことわざにも表れている。
でもそれは時代遅れな無知というものだ。
動物について知れば知るほど、彼らがいかに感情豊かで知性ある生き物かというのがわかるはずだ。
そのことがわかったとき、これほどの知性を備えた私たち人間が、いかに愚かで残酷な仕打ちを彼らにしているかということを悟り、胸を痛めることになるであろう。
私は言葉なき動物たちへ一方的な暴力をふるい続けている、自分と同じ人間を相手に抵抗の拳をあげている。
つまり動物側の立場に立っているわけだ。
それは言い方を換えれば、人間を敵にまわしていることなのかもしれない。
しかし、この先立ちはだかっているかもしれない孤立感や孤独もまったく恐れていない。
それが私の「信念」だからだ。
私のそれとはまったく次元が異なるが、トルストイやマザー・テレサでさえ、社会から目をそむけられている人々のために無償の愛と労を注ぎ、あれほど多くの民衆に愛されながらも、孤独と絶望の中で苦悩している。
この地球の、いつどこで何に生れ落ちるかを、自分で選ぶことが出来ずに、私たちはみな生まれてくる。
せめて今はこうして恵まれて生きていることへの感謝と、何かのために生涯を通して自分が貫いてゆきたいことを見出すことが出来れば、むしろ集団の中の孤独より、喜びを感じることが出来ると、私は信じている。